7令和6 年度 キッズナラティブ秋田県民公開講演会開催

 母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃せばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩さえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。靴足袋ももらった。鉛筆も貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。その三円を蝦蟇口へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ落してしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を捜して来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗っていた。それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみて臭いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。

 清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したものでお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺れていたに違いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに逢っては叶わない。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿しい。ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。

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